求め間違えた温かい手


 ボンゴレは、アニキの犬だった。その頭を撫でてやれば、自然に思い出す事がある。小学校の時に、道端に蹲っていた子犬。
 理由はわからないけれど、動けない様子の子犬を放っておけずに拾って帰った。
お強請りをして、病院に連れていって貰ったけど容態はよくなかったらしい。
 そうしてある日、学校から帰ってくると、子犬はいなくなっていて、家にいた兄に問いかけると『前の飼い主が向かえに来たのですよ』と笑った。
 そうなんだ。
 せめて、お別れくらい言いたかったなぁ。でも、きっとその飼い主のところへ行けばいいんだと思いつく。会いに行けるよねと尋ねたら、聡明な兄が頷いてくれたので、僕はすぐに信じた。
 けれど、子犬は弱っていた。答えなんか最初から単純なもの。気付かなかった事自体が可笑しいと言われれば、全くその通りだ。
 だから、僕はそこから導き出される「答え」を、ただ単純に恐れていただけなのかも知れない。

 そうして、現実はあっけない程に目の前に提示される。

「死にかけていた子犬は処分された」という、当たり前で単純な真実を。
 それは夕暮れも過ぎていて、友人と遊んで帰った後だったから、兄はもう家にいて、息を切らせ、それこそランドセルを玄関に放りだしたまま駆け寄った。
 そんな僕に、兄は眼鏡の奥の瞳を少しだけ細め、微笑みがらお帰りと告げた。喉を詰まらせて問い掛けた時も、兄は表情すら崩さない。
「そんな事は、子供が知らなくても良い事ですよ、響也。」
 意図はわからない。
 幼い弟にわざわざそんな残酷な話しを聞かせたくなかったのかもしれないし、ただ煩わしかったのかも知れない。兄の心はいつだって見えなかったから。

「でも、僕は…ぼく…本当の事を知りたいよ…。」

 涙を止めていた蓋が、ぱっと取り払われてボロボロと涙が零れた。何が悲しかったのか、その時はよくわからなかった。
 死んでしまった子犬が悲しかったのか、嘘をつかれた事が悲しかったのか。それでも、目の奥を熱くしているものは止められなくて、胸に支えた憤りは吐き出せなくて、ただ泣き続けた。
「いいから、どんなに辛くてもいいから…ホントの事言ってよ…。」
 だって、本当の事を知らなくたって後悔することがあるのを、僕はこの時に知っていた。

 もっと遊んでやれば良かった。
 もっと、御飯を分けてあげれば良かった。
 どうして、飼い主の住所を聞いておかなかったんだろう。 

 寝床の中で考え始めるといつだって頭の中は一杯いっぱいで、きっとこれが後悔するって事だと初めて知った。何も知らずに後悔して、真実を知ってなお、後悔するのなら、本当の事を知りたいと思った。

「本当の事を知ることになんの意味があるのですか?」

 けれど、兄は優しく微笑んで、涙でくしゃくしゃになっているだろう僕の目尻を指で拭ってくれる。細い指先が零れ落ちる雫を幾ら取り去っても、じわりと湧いてくれば、溜息混じりで眉を潜めた。しゃくり上げて、もう言葉にならない僕を見て溜息を洩らした。
「…本当の事を知り、こんなに悲しむ弟を見なければならないとすれば、私にとっての真実になど何の意味もありません。寧ろそれは私にとって真実などではないのですよ。
 貴方の様子に、今、私がどれ程に心を痛めていると思いますか?」
 
 可愛い、響也。

「響也を涙させる現実など消えてしまった方がいいとさえ思えます。」

 だから、泣き止んで下さい。笑っている貴方が一番好きですよ。

 綺麗な兄は、優しく微笑みながら笑いなさいと告げた。

 こんなに悲しいのに、どうして笑わなければならないんだろう。胸の奥底から沸き上がってくるそんな想いも、慈しむように頭を撫でてくれる手によって覆い隠された。ポツンと胸に、小さな蟠りだけを残して。

「ごめんなさい。もう泣かないから。」
「本当に、響也は良い子ですね。」
 そういうと、もう一度兄は、頭を優しく撫でてくれた。
 
 
求め間違えた温かい手


 積み重ねていく不信感は、いつしか形を成していた。それは必然のように現実となり、貴方はあの時も、僕の為だとそう止めた。
 ああ、そうか、なんて簡単な答え。
 僕は兄の心を知る事を、ただ単純に恐れていただけだったのかもしれない。

〜fin



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